孔子の「論語」と言えは、あまたの書籍が出版され、誰もが一度は「よし、読んでみよう」と決心して書籍を買ったのではないかと思います。「子曰く、〜」と聞いたことのある文章を見ると「これこれ」と思いながら読むものの、やがて興味を失い、読了することなく閉じられてしまうのではないでしょうか。
本屋をぶらぶらしていて見かけた本が、「物語として読む 全訳論語」(山田史生 著)。
パラパラと見てみると、一つ一つに物語がついていて何やら面白そう。これなら途中で投げ出さずに読めるのではないかと思って、早速購入して読み始めました。今日はこの本の内容をご紹介します。
学而第一(学問をこころざす者の心得)
子曰く、学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。朋有り遠方より来る、亦た楽しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子からずや
これも比較的有名な話でしょうか。何かを学んで、折にふれておさらいして身につけるというのは、本当に自分自身の身になるということであり、学びの基本と言えます。
懐かしい友達が遠くから訪ねてきてくれるということは、普段あまり親しくなく気にかけていなかった人でも、自分に心を寄せてくれていることを感じたる、本当に久しぶりに会ったりしても、すぐに打ち溶け合えることができるというのは、とてもありがたいことである。
人が自分おことをわかってくれな畔も腹を立てないことが、君子の態度であり、また社会からの仕打ちにとらわれず自分自身の道を貫くということデアもあります。
著者は、三つとも「後になって気づく」ということを言っているところがミソだと言います。
身についたかどうかチェックしたわけじゃないが、いつのまにか身についていた。訪ねてきてくれと頼んだわけじゃないが、ひょいと訪ねてきてくれた。わかってもらえないのはショックだったが、冷静になってみればわかってもらえなくてもしょうがないと腑に落ちた
これらはみな、「後から気づくこと」である。
「論語」の根底にある「経験や体験」を学びに変えてゆくという精神が最初に現れたものなのかもしれません。